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左翼系ミュージシャンの発言が嫌いな理由

もう皆さん、とっくにご存じだと思うが、私は左翼系ミュージシャンの発言が、本当に心の底から嫌いである。こう書くと、「では右翼なのか」と思われそうだが、そうではない。私は心の底では、たぶん相当にリベラルだ。

もう皆さん、とっくにご存じだと思うが、私は左翼系ミュージシャンの発言が、本当に心の底から嫌いである。
こう書くと、「では右翼なのか」と思われそうだが、そうではない。
私は心の底では、たぶん相当にリベラルだ。
戦争は嫌いだし、差別も嫌いだ。権力は常に疑ったほうがいいと思っているし、弱い立場の人が踏みつけられる社会は間違っていると思う。
主張の中身だけなら、
彼らに同意することも少なくない。
そこがまた、少し腹立たしい。
それなのに、私は彼らと同じ列にだけは、
どうしても並びたくない。
なぜなら、彼らは本当に列を作るからである。
世の中で何か一つ、大きな出来事が起こる。
すると、どこかに見えない指揮者でもいるのか、左翼系ミュージシャンたちが、いっせいに同じ話題について書き始める。
同じ方向を向き、同じ人物を批判し、同じ言葉で憤る。
もちろん、多少のアレンジはある。
激しい言葉で怒鳴る人もいれば、詩的な言葉で静かに嘆く人もいる。昔の偉人の言葉を引用する人もいれば、自分の子どもの未来を心配する形で書く人もいる。
しかし、アレンジが違うだけで、
原曲はだいたい同じである。
今日の課題曲がどこかから配布され、
全員がそれぞれの楽器を持って演奏を始めたように見える。

ミュージシャンなのに、
思想の話になると、急にユニゾンが好きになる。
音楽では「誰とも違う音を出したい」と言っている人が、政治の話になると、驚くほど全員と同じ音を出す。
しかも、絶対に音程を外さない。
そして、彼らの文章には独特の照明が当たっている。
「私は正しい側にいます」という照明である。
しかも、一見すると、かなり賢そうに見える。
難しい言葉が並び、歴史が引用され、数字や制度の話も出てくる。文章も長く、理路整然としている。
一文ずつ読んでいるうちは、「なるほど」と思ってしまうことさえある。
ところが、少し離れた場所から全体を眺めてみると、必ずどこかで論理が破綻している。
同じ行為でも、
敵がすれば「許されない暴挙」になり、
味方がすれば「やむを得ない抵抗」になる。
敵の失敗は、その思想全体の欠陥として語る。
味方の失敗は、その人個人の問題として処理する。
状況に応じて、判断の物差しそのものが、いつの間にか持ち替えられている。
つまり彼らは、
論理によって結論へたどり着いているのではない。
最初に「自分たちのイデオロギーが正しい」という目的地を入力し、そこへ着くためだけに論理を走らせている。
都合の悪い事実が道路に現れると、
頭の中のカーナビが静かに告げる。
「ルートを再検索します」
そして、その事実をきれいに迂回し、
結局いつもの目的地へ到着する。

これでは論理的なのではない。
論理風である。
では、実はあまり頭が良くないのだろうか。
たぶん、そうとも限らない。
むしろ頭の良い人ほど、先に決めた結論を守るための、複雑でもっともらしい理屈を作ることができる。
問題は、頭の性能ではない。
頭を使う方向である。
考えた末に結論を出すのではなく、
結論を変えないために考えている。
頭は使っている。
しかし、知性は働いていない。
本当に知的な人間なら、
少しくらい自分を疑うはずだ。
自分が間違っているかもしれない。自分たちの側にも問題があるかもしれない。新しい事実が出てきたら、結論を変えなければならないかもしれない。
ところが、彼らの文章には、
その可能性だけが見事に欠けている。
いつも悪いのは向こう側である。
反省すべきなのも、勉強すべきなのも、歴史を直視すべきなのも、すべて向こう側の人間だ。
権力を監視する目は鋭いのに、
自分自身を監視するカメラだけ、
なぜか電源が入っていない。

そして何より不思議なのは、
反権力を語る人たちが、
仲間内の空気には驚くほど従順なことだ。
国家には従わない。
大企業にも従わない。
多数派の価値観にも流されない。
しかし、仲間内で流行している意見には、
ものすごい速さで従う。
反体制という制服を全員できちんと着用し、
襟元まで同じように揃えている。
そこへ少しでも違う意見を言う人が現れると、たちまち「勉強不足」「無関心」「権力側」と分類される。
彼らの世界地図には、味方の村と敵国しかない。
少し離れた場所で、
一人で考えている人のための空き地がない。

私は、思想というものは、
もう少し不格好でいいと思っている。
人間は、本来かなり矛盾している。
平和を願いながら、誰かを憎む。
自由を求めながら、自分の気に入らない言葉は禁止したくなる。
弱い人を守りたいと思いながら、自分の生活も守りたい。
その矛盾の中で迷い、ときどき言葉に詰まりながら、それでも考え続ける。
それが人間ではないだろうか。
ところが、彼らの言葉は、あまりにもきれいに整っている。
正義と悪が完全に分離され、不要な迷いはすべてカットされ、自分の矛盾には強力なノイズゲートがかかっている。
録音としてはクリアなのかもしれない。
しかし、ノイズを取り除きすぎて、
息遣いまで消えている。
思想ではなく、
正義を演じるパフォーマンスに見えてしまう。

音楽や文学が本来すくい上げるのは、
正解からこぼれ落ちたものではないだろうか。
正しいとも間違っているとも言い切れない感情。
愛しているのに憎い。
許したいのに許せない。
立派に生きたいのに、どうしても弱い。
そういう、人間の中にあるどうしようもない濁りを拾い上げるのが、表現の仕事だと私は思う。
正しい答えを大声で発表するだけなら、
ミュージシャンでなくてもできる。
それは音楽ではなく、朝礼である。
だから私は、左翼系ミュージシャンの発言が嫌いなのだ。
左翼だからではない。
ミュージシャンでありながら、自分の耳を仲間内のメトロノームに預けてしまっているように見えるからだ。

あるいは私は、心の底ではリベラルだからこそ、
彼らが嫌いなのかもしれない。
自由とは、敵に逆らうことだけではない。
味方と違うことを言えること。
仲間から拍手されなくても、
自分の頭で考えること。
そして、自分の正義さえ疑えることだ。
その不協和音から、
ようやく本当の音楽が始まるのだと思う。