そろそろ、望んでいるものの話を聞きたい
誰が嫌いかだけでなく、何を大切にしたいのか。政治への批判を読んで、反対する言葉の先にある、その人が望む社会について考えた。

「高市やめろ!」
と叫んでいる音楽関係者を、また見かけた。
言いたいことがあるのはわかる。
政治に腹が立つことくらい、私にもある。
でも、投稿を読み終えても、
この人がどんな社会にしたいのかは、
わからなかった。
辞めたあと、誰に、何をしてほしいのか。
何が変われば、自分たちの平和を守れると思っているのか。
そこを、もう少し聞いてみたい。
もちろん、批判するのに、
次の総理大臣まで用意する義務はない。
料理が焦げていたら、
自分で作り直せなくても「焦げています」と言っていい。
それに対して、
「では、あなたが厨房に立ってください」
と返す店は、だいぶ面倒くさい。
ただ、何度も
「店長やめろ!」という話しか聞けないと、
この人は何を食べたいのだろう、とは思う。
反対する言葉は、強い。
短く言える。
仲間も集まりやすい。
「そうだ、そうだ」と声が重なると、
自分たちが世の中の中心にいるような気持ちにもなるのだろう。
でも、同じものが嫌いな人たちが、
同じ未来を望んでいるとは限らない。
いざ、
「では、どうしましょう」となると、
さっきまでの大合唱が、
急に小さくなることもある。
反対しているあいだは見えなかった違いが、
そこで見えてくる。
私は、むしろその話を聞きたい。
音楽なら、
「あいつの曲は駄目だ」と言ったあとに、
自分の曲を聴かせることができる。
すると、わかる。
ああ、この人は、
こういう音を美しいと思っているのか。
好きになるかどうかは別として、
その人の大切にしているものに触れられる。
政治の話でも、
そういう瞬間が、もう少しあってほしい。
誰が嫌いかだけでなく、
何を大切にしたいのか。
同じ価値観で固まった狭い界隈の中で、
安心して「やめろ!」と声を上げる。
それが、
「俺たちは今も、あの頃のままカッコいい」
と仲間同士で確かめ合うための
合言葉のように聞こえてしまうことがある。
若い頃、ロックが好きで、
偉そうなだけの大人をバカにしていた人が、
いつしか、その大人によく似てくる。
自分では、
今も反抗しているつもりなのに。
誰を引きずり下ろしたいかの先に、
どんな暮らしのできる社会を望んでいるのか。
それを語れば、
今度は自分の考えも批判される。
「それは無理だ」
「そのやり方では困る人がいる」
そう言われる場所に、
自分も立つことになる。
その覚悟があるなら、
ようやく話が進みそうな気がする。
反対しているものは、よくわかった。
そろそろ、
望んでいるものの話を聞きたい。
音楽の話をするときには、
あんなに豊かな言葉を持っている人なのだから。