三時間の電話、十五分の会話
彼女との電話は長い。三時間くらい平気で続く。でも、三時間ぶん話しているわけではない。

彼女との電話は長い。
三時間くらい平気で続く。
でも、三時間ぶん話しているわけではない。
早口で話せば十五分くらいで終わりそうなことを、
ぽつり、ぽつりと話す。
そして、よく黙る。
それでもなぜか、電話は切らない。
その日も二時間くらい話していた。
前の日、長岡は天気が良くて、星も月も綺麗だった。
そんな話をしたら、突然、彼女が言った。
「今見えるかな。ちょっと月見てくる。……待ってて」
電話はミュートになった。
なんだそれ、と思いながら待っていた。
しばらくして戻ってきて、彼女は言った。
月はいつも変わらずいてくれる。
でも、
「一秒後は、違う月だから」
今この一瞬に見える景色を、大切にしたいのだという。
これだけ読むと、それらしいことを言う「不思議ちゃん」のように思えるかもしれない。
でも、たぶん違う。
彼女と町を歩いていると、
突然立ち止まることがある。
何かと思えば、街路樹の葉っぱを見ている。
確かに、不思議な色をした葉っぱだった。
私たちはそこで立ち止まって、
人生で初めて、街路樹についてぽつりぽつり話した。
Googleで調べて、その木の名前を知った。
それまで私の世界には、その木はなかった。
美術館でも水族館でも、
私なら通り過ぎるようなところで止まる。
同じ場所に立って、同じ方向を見てみる。
すると、
あ、本当だ。
群れの中に、ちょっと変わった一匹がいる。
なんか面白い。
私一人だったら存在しなかったものが、
世界にひとつ増える。
一緒に行くと、水族館も美術館も、
気がつけば閉館時間になる。
あるときは、
「カエルって、トランポリン飛ぶかな」
と言った。
きゅうりを食べた話をしたら、
「きゅうりは水のようです」
と返ってきた。
夕暮れの写真には、
「黄金色の空でした」
と書いてあった。
海の話をしていたら、
「エラ呼吸できたらいいな」
と言った。
この人はたぶん、
世界について、知りすぎたふりをしていない。
私は反対に、未来を見るのが得意だ。
まだない曲を作る。
まだない機械を作る。
まだない場所を作る。
明日のために今日を使い、
来年のために明日を使う。
それは私の大切な能力だと思っている。
でも、弱点もある。
今が、いつも未来の材料になってしまう。
彼女は未来へ歩いていても、
葉っぱが気になれば止まる。
月が気になれば、
電話の途中でも見に行く。
だから待ち合わせにも、
ときどき遅れる。
困ったものである。
彼女は時間が分からないわけではない。
仕事には、ちゃんと時間どおり行くらしい。
ただ自由になると、
今という時間に、少し忠実すぎるのかもしれない。
実は、彼女が月を見ている間に、ふと思った。
私も月を見られるんじゃないか。
深夜三時。
長岡の外へ出た。
澄んだ夜空に少し雲があって、
その間から半分の月がくっきり見えた。
私は写真を撮った。
同じ月を見ていたことを、
あとで彼女に見せたかった。
しばらくして、電話の向こうから声がした。
「見えた」
「私も見たよ。長岡と東京で、同じ月見ちゃったね」
少しロマンチックなことを言ったと思う。
彼女は言った。
「半分の月が、雲の中で消えたり見えたりしてた」
……そこじゃないらしい。
でも、たぶん私は、
そういうところが好きなのだ。
私は、同じ月を見た二人のことを考える。
彼女は、月を見る。
そして彼女といると、
私も少しだけ、
月そのものを見るようになる。
一秒後には、
もう違う月だから。