自分の頭で考えた、その先で
「自分の頭で考えろ」と言う人が、自分と違う答えを出した人に、「もっと考えろ」と言う。

「自分の頭で考えろ」と言う人が、
自分と違う答えを出した人に、
「もっと考えろ」と言う。
何度考えても、
その人と同じ答えになるまで、
考えたことにしてもらえない。
自由研究のはずが、
先生の正解を当てる授業になっている。
反抗しろ。
ただし、反抗する相手は決まっている。
自由に歌え。
ただし、褒めていい人は決まっている。
そこから外れると、
「社会への影響を考えているのか」と問われる。
もちろん、表現への批判も自由だ。
どの言葉の、何が問題なのか。
そこは大いに話せばいい。
ただ、意見が違うというだけで、
相手を考えの足りない人にする必要はない。
社会の複雑な問題が、
「強い言葉」や「大きな物語」によって
単純化されていくことが心配だ、という。
その心配はわかる。
では、その心配は、
反権力や反戦の言葉にも向けられるだろうか。
「権力に抗う私たち」
「戦争を止める私たち」
こちらも、なかなか大きな物語だ。
平和を願う人同士でも、
平和を守る方法については意見が違う。
それを、
「戦争に反対する人」と
「戦争をしたがる人」に分けてしまえば、
複雑な話も、ずいぶん簡単になる。
味方も敵も、すぐ決まる。
考える手間まで省けてしまう。
単純化を心配していたはずなのに。
強い言葉を疑うなら、
自分が拍手したくなる言葉も疑いたい。
自分の好きな物語だけが、
複雑な現実を正しく語れるわけではない。
相手は、考えていないのではない。
考えた結果、自分と違ったのかもしれない。
自由研究なのだから、
違う答えを持って帰ってくる人もいる。
そこから話を聞くのが、
自由を大切にする、ということだと思う。