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うまいのに、なぜかダサい

うまいのに、なぜかダサい世の中には、誰が聴いてもうまいのに、なぜかダサく見える人がいる。技術だけを見れば、もう足りないものはない。

うまいのに、なぜかダサい
世の中には、誰が聴いてもうまいのに、なぜかダサく見える人がいる。
技術だけを見れば、もう足りないものはない。
ステージに出てきた瞬間から、自信も満々である。
それなのに、何かがもう一歩だけ抜け切らない。
こちらの心の中にいる小さな審査員が、
なぜか「保留」の札を上げる。
うまい。
間違いなくうまい。
しかし、なんだろう。
ちょっとダサい。

そのうまさを否定するつもりはない。
むしろ、うまいと認めれば認めるほど、謎は深まる。
なぜ、これほどよくできているのに、
格好よく見えないのか。
おそらくその瞬間、演奏の主役が音楽ではなく、
「音楽がうまい自分」
になっているのだ。
高音を出す少し前から、
顔がもう高音を出している。
ギタリストがチョーキングを始めると、
まだ音程は上がり切っていないのに、
顔だけ先に天国へ到着している。
歌い終わったあとには、
「今の、すごかったでしょう」という余韻まで、
きちんと付属している。
一音ごとに字幕が見えるのだ。
「ここ、鳥肌ポイントです」
「ここで泣いてください」
「今のフェイクは、かなり高度です」
頼んでもいないのに、
プレゼンテーションが始まる。
曲を聴いていたはずなのに、
いつの間にか「私の実力」という名の
パワーポイントを見せられている。

演奏はうまい。
しかし、曲が本人の履歴書に添付された参考資料のようになっている。
自信があること自体は、
まったく悪くない。
本当に格好いい演奏家も、
たいてい自信はある。
ただし、自信の向きが違う。
格好いい人の自信は、音楽へ向かっている。
この曲は大丈夫だ。
この一音で届く。
ここでは、自分は黙っていていい。
そう信じられるから、音を減らせる。
自分を目立たない場所へ引っ込められる。
一番おいしいフレーズを、あえて弾かずにいられる。
ところが、ダサく見える自信は、
ずっと観客のほうを向いている。
私はうまい。
私はすごい。
さあ、認めてください。
その自信は堂々としているように見えて、
実は一秒ごとに観客へ確認を求めている。
自信満々なのに、承認の集金に忙しいのである。

もっとも、これは他人だけの話ではない。
私だって、うまく見られたい。
感動させたい。
認められたい。
ミュージシャンなら、たぶん誰でもそうだ。
気を抜けば、私もすぐに同じ集金袋を持って、
客席へ降りていく。
だからこれは、誰かを裁く話というより、
表現する人間がいつでも陥る罠の話なのだ。
そして、そういう演奏には隙がない。
歌い方も、表情も、ポーズも、観客の煽り方も、
すべて「格好いいとされている型」で埋め尽くされている。
目を閉じる場所。
胸に手を当てる場所。
マイクを離す場所。
最後に膝を少し曲げる場所。
感情まで、既視感のある振り付けが済んでいる。
もちろん、その一つひとつは間違っていない。
しかし、全部が正解だと、なぜか人間がいなくなる。
どこかで見た情熱。
どこかで見た陶酔。
どこかで見た魂。
魂の既製品である。

反対に、すべてが整っているわけではないのに、
妙に格好いい人もいる。
声がひっくり返る。
リズムが少し後ろへ転ぶ。
立ち姿も、あまり華がない。
もちろん、
危なっかしければ格好いいという話ではない。
下手は、たいていただ下手である。
私もそうだった。
それでも、その人が歌い始めると、
なぜか聴き入ってしまう。
不完全さそのものが魅力なのではない。
その奥に、「こう見られたい」より先に、
「こうするしかない」がある。
上手に見せるためではない。
その人の中で、その音がどうしても鳴ってしまう。
だから聴く側も、評価するのを忘れて聴いてしまう。
格好よさは、完成度の高さだけで決まるものではない。
そこに、その人がそうするしかなかった必然があるかどうか。

たぶん、人がうまいのにダサく見える瞬間とは、
自分が音楽のセンターから退けなくなったときなのだ。
そして本当に格好いい人は、
必要なら自分をセンターから退かせられる。
「私を見てくれ」ではなく、
「これを聴いてくれ」
と言える。
そのとき初めて、
音楽が本人よりも大きくなる。
格好よさは、格好よく見せようとして作るものではない。
格好よく見えることを忘れ、
音楽に必要なことだけを選んだとき、
その人は結果として格好よくなる。