二十代の私とニーチェ
プロミュージシャンになる夢を見ながら働いていた20代の頃、ニーチェばかり読んでいた。ちくま学芸文庫のニーチェは、ほぼ全部読んだと思う。『善悪の彼岸』から入り、

プロミュージシャンになる夢を見ながら働いていた20代の頃、ニーチェばかり読んでいた。
ちくま学芸文庫のニーチェは、ほぼ全部読んだと思う。
『善悪の彼岸』から入り、
『人間的な、あまりにも人間的な』
『曙光』『悦ばしき知識』あたりが、とくに好きだった。
人間の立派な言い分を、
ひっくり返して裏を見る。
その善意、ちょっと見栄が入っていませんか。
その正義、自分に都合よくできていませんか。
そして、読んでいるこちらも油断できない。
他人の話だと思って笑っていると、
自分にも刺さる。
痛い。
でも、面白い。
そんなふうに世界を眺めていられることが、
気持ちよかった。
『ツァラトゥストラはかく語りき』は、
少し気合いが入りすぎていて、
読みづらかった。
隣で面白い話をしていた人が、
急に山の上から語り始めた感じ。
いや、そこまで登らなくても聞こえる…。
『この人を見よ』になると、今度は切なかった。
あれほど強く自分を肯定する言葉が、
私には、どこか痛々しく響いた。
もうわかったよ。
私はこんなに読んでいるんだから。
そう言いたくなった。
百数十年ほど、返事が遅いのだけれど。
私にとってニーチェは、
百数十年の時を超えてできた
友だちのような存在だった。
もちろん、会ったことはない。
会ったら気が合うかどうかも、わからない。
本なら、こちらの都合で閉じられる。
友だちとしては、まあありがたい条件である。
それでも、
こんなことを考えていた人がいたのか、
と思えるのは嬉しかった。
誰にも説明できずにいた違和感に、
遠い時代から言葉が届く。
私だけではなかった。
本を読んでいるだけなのに、
ひとりでいる感じが、少し変わった。
ただ、ずっと理解されずに強がるのも、
高いところから世間を眺め続けるのも、
違う気がしていた。
「誰にもわからないのは、自分が特別だからだ」
それで自分を納得させてしまうのは、
それはそれで、夢がない。
私は音楽を作りたかった。
誰かに聴いてほしかった。
世間に違和感はある。
でも、その世間のどこかに、
私みたいなやつがいる気もしていた。
みんなが納得しているところで、
ひとりだけ首をかしげる。
うまく説明できないので、黙っている。
家に帰って、音楽を聴く。
そういうやつに、届いたらいいと思っている。
考えてみれば、ニーチェの言葉は、
実際に私まで届いていた。
百数十年後の日本で、
働きながらミュージシャンを目指している若者が、
文庫本を読んで、勝手に友だちと感じる。
本人が知ったら、どう思うだろう。
私も、そんな音楽を作りたいと思った。
いつか、どこかで、
私みたいなやつが聴いて、
「ああ、こいつもか」
と思ってくれたら最高だ。
会えなくてもいい。
私が知らないままでもいい。
ニーチェだって、私のことは知らない。