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ニーチェと葡萄屋のおばちゃん

ニーチェの『この人を見よ』は、少し切なかったと書いた。でも、この本には、ずっと好きな話がある。

ニーチェの『この人を見よ』は、少し切なかったと書いた。
でも、この本には、
ずっと好きな話がある。
葡萄屋のおばちゃんの話だ。

露店で葡萄を売っている老婆が、
ニーチェのために、最も甘い房を選んでくれた。
ちゃんと選び終えるまでは、
気が済まなかったという。
そして、こう続ける。
「哲学者たるものはざっとこれくらいにならなけりゃあ駄目である」
哲学の話をしていたはずなのに、
いきなり葡萄が出てくる。
しかも、哲学者の合格基準として。
でも私は、ここに、
哲学をする意味のようなものを感じていた。

おばちゃんは、ニーチェの本を読んでいない。
目の前のひげのおじさんが、
どれほど人間について考えているかも知らない。
それでも、
この人には、いちばんおいしい葡萄を渡したい。
そう思わせる何かが、
彼にはあったのかもしれない。

考えれば考えるほど、
人間の見栄や、弱さや、ずるさが見えてくる。
それだけなら、
人間が嫌いになって終わることもある。
何を言われても、
つい、その裏を読む。
ニーチェを読んでいた若い私にも、
そういうところはあったと思う。
人間を見抜くことと、
人間を理解することの違いが、
まだよくわかっていなかった。

もっと深く考えていくと、
見えてくるものも変わってくる。
なぜ、その人は見栄を張るのか。
なぜ、そんな言い訳が必要なのか。
何を怖がり、何を守ろうとしているのか。
そして、
自分だって、その人間の一人なのだ。
そこまでわかってくると、
人に向ける眼差しも、
少し変わる気がする。
弱さに気づいても、
すぐに指をささなくなる。
相手がうまく言えないことを、
少し待てるようになる。
そういうものは、
黙っていても、どこかに出る。
声や、表情や、
葡萄を選んでもらっているときの佇まいに。

私は、実際のニーチェを知らない。
気難しい日もあっただろうし、
いつも穏やかな人だったと言いたいわけでもない。
ただ、彼がこの出来事を喜び、
「哲学者たるもの」と書いたことが好きなのだ。
考え抜いたことが、
その人の生き方や、
人との接し方にまで滲んでくる。
本を一冊も読んでいない人にも、
何かが伝わる。
彼もそこに、
哲学者として大切なものを感じていたのではないか。

哲学のその先に、
葡萄屋のおばちゃんが、
こちらのために甘い房を探してくれるような場所がある。
私は、そこに惹かれたのだと思う。
ずいぶん遠くまで考えてきた人が、
目の前の人とは、
なんだか温かいやりとりをしている。
哲学者たるもの、
ざっとこれくらいにならなけりゃあ駄目である。
笑って読んだ言葉なのに、
歳を取るほど、合格基準が高くなる。