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神話を捨てた音楽家

先日、左翼を名乗るあるミュージシャンが、日本神話を否定するような文章を書いているのを読んだ。神話など非科学的で、

先日、左翼を名乗るあるミュージシャンが、
日本神話を否定するような文章を書いているのを読んだ。
神話など非科学的で、
権力が人々を従わせるために作った虚構にすぎない。
だいたい、そんな内容だった。

それを読んで思った。
神話の底が浅いのではない。
読み方が浅いのである。
そして意地悪を承知で言えば、
その浅さは、
その人の音楽から感じるものとよく似ていた。
何でも正義と悪に分け、
正しい側に立った自分だけは決して疑わない。
そういう音楽は、
歌詞がどれほど立派なことを訴えていても、
人間を描くという点では、
神話にはるかに敵わない。

日本の神話は面白い。
なにしろ、神々がまったく神々しくない。
怒る。
嫉妬する。
泣く。
逃げる。
約束を破る。
見てはいけないものを見て、取り乱す。
太陽神アマテラスに至っては、
弟スサノオの乱暴に腹を立て、
岩戸に引きこもってしまう。
世界を照らす責任者が、
職場放棄である。
当然、世界は真っ暗になる。
現代なら緊急役員会議だ。
ところが、ほかの神々は岩戸の前で、
「あなたには太陽神としての社会的責任があります」
などと説教しない。
岩戸を破壊して、強制的に連れ出すこともしない。
外で宴会を始めるのである。
アメノウズメが踊り、八百万の神々が大笑いする。
中にいるアマテラスは気になってくる。
私がいなくて世界は真っ暗なはずなのに、
外ではなぜ、みんな楽しそうなのだろう。
少しだけ戸を開ける。
そこへ鏡を差し出し、
力持ちの神が手を取って、世界に光を戻す。

なんというクールな知恵だろう。
閉じこもった人を、正論で引きずり出さない。
外の世界に、もう一度興味を持たせる。
人間は、正しさだけでは動かない。
好奇心や笑いや、
楽しそうな気配によって、
ようやく岩戸を少し開ける。
神話は何千年も前から、
そのことを知っていた。
神話とは、
昔の人が本気で信じていた幼稚な作り話ではない。
人間の中にある
嫉妬、怒り、悲しみ、喪失、欲望、恐怖を、
神々の姿にして保存した巨大な記憶装置である。

キリスト教国だって同じだ。
旧約聖書には天地創造があり、
大洪水があり、海が割れる。
新約聖書にも処女懐胎や復活がある。
現代の科学的な尺度だけで読めば、
かなりオカルトじみている。
しかし、それを指さして、
「こんなことは科学的にあり得ません」
と言って終わるのは、
桃太郎を読んで、
「犬と猿とキジだけで鬼ヶ島を制圧する兵力計算には無理があります」
と指摘するようなものだ。
間違ってはいない。
しかし、何ひとつ読めていない。

人間は、
神話によって世界の始まりを想像し、
善と悪を考え、死を受け入れ、
許しや犠牲や希望について語ってきた。
それらは、
その土地に住む人々のアイデンティティとなり、
文化の癖となり、
世界を見る角度になった。
もちろん、神話は無害ではない。
自分たちだけが選ばれた民であるとか、
この血筋だけが正統であるとか、
ひとつの物語を絶対化すれば、
排他性や暴力につながる。
神話を政治権力が利用してきた歴史もある。
だから、神話は注意深く読まなければならない。
しかし、注意深く読むことと、
存在そのものを否定することは、まったく違う。

神話を捨てれば、
人間が合理的になるわけではない。
人間は、神話を追放した空席に、
必ず別の神話を座らせる。
歴史は必ずこの方向へ進む。
革命が完成すれば理想社会が訪れる。
正しい思想を持つ者だけが新しい人間になれる。
共産主義も、
神話を否定したつもりで、
じつは巨大な神話を作った。
しかも、それを神話ではなく
「科学」や「歴史の必然」と呼んだ。
神話であることを自覚している神話より、
自分を絶対的な事実だと思い込んだ神話のほうが、
はるかに危険である。
現実の人間が物語に合わなければ、
人間のほうを消し始めるからだ。

必要なのは、
神話をすべて信じることでも、
すべて否定することでもない。
神話を、神話として読めることだ。
笑いながら、怖がりながら、
その奥にある人間の弱さと知恵を見つける。
八百万の神々がいる世界は、
矛盾だらけで、騒がしく、少し滑稽だ。
しかし、人間もまた、
そういう存在である。

神話を笑う前に考えたほうがいい。
世界を幼稚なほど単純にしているのは、
神話のほうではない。
正解をひとつにしたがる、
私たちのほうなのかもしれない。