ちいかわと、悲劇の作家たち
ちいかわと黒澤明とドストエフスキーとスコット・フィッツジェラルド。共通して感じるのは、悲劇性だ。悪いやつがやってきて、

ちいかわと黒澤明とドストエフスキーとスコット・フィッツジェラルド。
共通して感じるのは、悲劇性だ。
悪いやつがやってきて、
平和な暮らしを壊す、
という単純な悲劇ではない。
それぞれが、それぞれの事情で生きている。
誰かを守りたかったり、認められたかったり、
ただ今日を無事に終えたかったりする。
なのに、悲劇が起きる。
自分の側から見れば、ちゃんと理由がある。
あのときは、そうするしかなかった。
あの人のためを思っていた。
自分だって、精いっぱいだった。
たぶん、嘘ではない。
ところが、
精いっぱいの人と、
精いっぱいの人が出会えば、
うまくいくとは限らない。
守りたいものが違う。
怖がっているものが違う。
見えている景色が違う。
こちらが必死につかんだものを、
向こうも必死につかんでいる。
どちらにも、手を離せない事情がある。
そして、破れる。
もちろん、誰もが善人というわけではない。
見栄もある。嫉妬もある。
愛情だと思っていたものに、支配欲が混じっていたりする。
本人だけが、それに気づいていなかったりもする。
だから、「誰も悪くない」と言い切ると、少し違う。
ただ、誰が悪いかを決めても、
それだけでは片づかない。
その人を責める言葉は見つかる。
でも、その人がそこへたどり着くまでの道を見てしまうと、
責めるだけでは足りなくなる。
私がこの四者に感じるのは、そういう悲劇だ。
そして、どこにもスターがいない。
もちろん、主人公はいる。
魅力的な人物もいる。
ただ、その人が登場すれば、
すべてが解決するわけではない。
正しいことを言っても、届かない。
勇気を出しても、間に合わない。
愛していても、相手の欲しいものを渡せない。
ここで誰かが来て、何とかしてくれるだろう。
そう思って待っていても、来ない。
来た人にも、その人の困りごとがある。
そんな世界に、無垢な存在がいる。
無垢といっても、何ひとつ間違えない聖人ではない。
怖がるし、欲しがるし、失敗もする。
おいしいものがあれば、うれしい。
明日もちょっといいことがあるといいな、と思っている。
そして、少しでも誰かに優しくあろうとしている。
彼らには傷ついてほしくない。
見ているこちらは、そう思う。
世界を手に入れたいと言っているわけではない。
誰かの上に立ちたいわけでもない。
ただ、誰かに寄り添っていたい。
できれば、その人と笑っていたい。
それさえ、ときどき難しい。
世界が救われるわけではない。
世界なんて救われない。
それでも、誰かを思う。
怖がりながら、手を伸ばす。
その手が誰かを救うこともあれば、
別の誰かを傷つけてしまうこともある。
誰が正しく、誰が悪いか。
それだけでは、
見えなくなるものがある。
それぞれの願いや恐れが絡み合い、
誰にも思いどおりにできない流れになっていく。
その中で、
誰かに優しくあろうとしている。
間違えながらも生き続ける。
その姿から、目を離せなくなる。
そこに、どうしても美しさを感じてしまう。
そんな「善悪の彼岸」を描いてしまっている作品が、
私は好きだ。