AIに全ベットした一年
ここ一年、私はほぼAIに全ベットしてきた。文章を書かせ、画像を作らせ、動画を作らせ、音楽を作らせ、プログラムまで書かせた。もはや便利な道具というより、

ここ一年、私はほぼAIに全ベットしてきた。
文章を書かせ、画像を作らせ、動画を作らせ、音楽を作らせ、プログラムまで書かせた。
もはや便利な道具というより、
二十四時間いつでも呼び出せる謎の同僚である。
朝起きて、人間より先にAIへ話しかける日もある。
そんな生活を一年ほど続けて、わかったことがある。
AIは、使う人のもっとも得意なことをあぶり出す。
しかも、それは努力して身につけた技術とは少し違う。
もっと前から、その人の中にあったもの。
持って生まれた才能のようなものだ。
AIが登場したとき、多くの人は、
これで誰でも同じようなことができるようになると思った。
たしかに、ある程度はそうなった。
文章を書けなかった人も文章を作れる。
絵を描けなかった人も画像を作れる。
楽器を弾けなくても音楽を作れる。
プログラミングを知らなくてもアプリを作れる。
技術の差は、かなり小さくなった。
ところが、技術の差が小さくなると、
今度は別の差がはっきり見えてくる。
同じAIを渡しても、使い方がまるで違うのだ。
ある人は、膨大な情報をきれいに整理する。
ある人は、そこから商売の仕組みを作る。
ある人は、物語を始める。
ある人は、誰も気にしていなかった小さな違和感を見つける。
そしてある人は、猫に宇宙船を操縦させることに、一日の計算能力のほとんどを使う。
AIには、何でも頼める。
しかし、何を頼みたいのかまでは教えてくれない。
そこに、その人自身が丸ごと出る。
これまで才能は、技術の陰に隠れていた。
頭の中にすばらしい映像があっても、
絵を描けなければ外へ出せなかった。
面白い物語があっても、
文章を書く技術がなければ形にならなかった。
聴いたことのない音楽が頭の中で鳴っていても、
楽器や録音の技術がなければ、
本人の中だけで上映終了である。
技術とは、才能を現実へ運ぶための橋だった。
その橋を架けるために、人は何年も練習してきた。
AIは、その橋をものすごい速さで架けてしまう。
すると問題は、橋を渡れるかどうかではなくなる。
その橋の向こうへ、何を運ぶのか。
そこで初めて、その人の本当の才能が見えてくる。
才能とは、上手にできることではないのかもしれない。
誰にも頼まれていないのに、そこばかり見てしまうこと。
他人が通り過ぎる場所で、なぜか立ち止まってしまうこと。
何度やめても、また同じことを考えてしまうこと。
本人にとってはあまりにも自然なので、
それが才能だとは気づきにくい。
AIは文句を言わず、その偏りに付き合ってくれる。
だから使えば使うほど、その人の偏りが増幅される。
万能の道具を手にしたはずなのに、
人は結局、自分にしかできないことばかり始める。
AIによって、
人間の価値がなくなると言う人がいる。
しかし実際には、逆なのかもしれない。
努力して身につけた技術が均等になっていくほど、
その奥にある、生まれ持った感覚が露出する。
何に心が動くのか。
何を見過ごせないのか。
何を面白いと思うのか。
何を作らずにはいられないのか。
AIは、才能を与えてくれる機械ではない。
すでにその人の中にあった、
まだ目に見えない像を浮かび上がらせる。
才能の現像液なのである。
私はこの一年、
未来の道具に全ベットしてきたつもりだった。
ところが、そこでいちばん鮮明に映し出されたのは、
未来ではなかった。
自分だった。